ウッチャンの落書きストーリー

●アマーイ香りに気をつけろ!

横須賀市・内田 知

 厚木で一人暮らしをしていた頃の話である。どこに出かけるのか、本厚木駅に向かうバスを待つウッチャンの姿があった。時間は、朝の通勤の時間帯を少し過ぎていたせいか、バス停にはウッチャンだけであった。待つこと数分、バスが到着。ドアの開く音の方向へ進み、バスに乗り込むウッチャン。

 厚木の路線バスは、運転手側から乗車するようになっている。となれば、ウッチャンのめざすシルバーシートは、後ろに数歩進んだ右側にある。「駅前で降りますのでお願いします」と運転手に声をかけ後ろに進もうとした瞬間、ウッチャンの大好きな足音が近づいてきた。ウッチャンの大好きな足音って・・・? それはもう、ハイヒールの足音しかないじゃないですか。

 その足音の主は、素早くウッチャンの手をとり、「空いている座席がありますから」と誘導してくれた。もちろん、おててつないでである。こうなると、ウッチャンのすることは決まっているのだ。つないだ手をしっかりと、そして強く握り返す事である。

 座席に座りながら礼を言うウッチャン。それに、気になさらないで」の返事。その言葉のやわらかさと、おねぇちゃんからただよってくる、オーデコロンの甘い香りに鼻の下を伸ばし始めるウッチャンだった。(甘い香りのオーデコロンにハイヒール。バリバリのキャリアウーマン。それとも受付嬢か、化粧品メーカーの美容部員かな)と、ただよってくる甘い香りに、鼻をクンクンさせながら、おねぇちゃんを想像、頭の中は、ピンク色に染まって完全にエロオヤジ化していた。

むせかえる車内
 そんなウッチャンを乗せたバスが、いくつか目のバス停に停車。何人かが乗車してきた。そんな中に、再びあの足音が。(ハイヒールかな)と耳をダンボにする。だが、聴覚より早く嗅覚が反応した。新たな甘い香りがただよってきたのである。その香りは、足音とともにウッチャンの前に。走り出す直前のバスの動きに、体がよろめいたのか、その時、ウッチャンの前から聞こえた音、まさしくハイヒールであった。

 あらたな甘い香りに、鼻をくんくん(今までのがショートケーキで、今度のはモンブランって感じかな)などと思うウッチャン。頭の中のピンク色は濃くなっていくばかり。エロオヤジ化したウッチャンは、わけのわからぬ妄想の世界へ。しかし、そんな世界に居られるのもホンのわずかだった。

 甘い香りと言えども、違った香りが二つ、それも窓の開いてない車内。ぶつかり合う香り、それが混ざり合った時、香りなどとは表現できないニオイと変化する。調子にのって、鼻をクンクンさせていたからたまらない。思いっきりむせかえり咳き込むウッチャン。車内は、なんとも言えないニオイが広がり始めていた。乗客たちだけでなく、運転手さえもむせて咳き込む。

 こうなると、頭の中のピンク色は、一気に灰色と変化する。思わず、鼻と口を手でふさぐウッチャン。この場から逃げる方法は一つしかない。(早く、駅に着いてクレェ)と心で叫びつづけた。

 この思いは、他の乗客たちも同じだったのであろう。駅前にバスが到着。我先に乗降口のドアへ向かう乗客たちだった。いつもならゆっくりと降りるウッチャンも、負けじと停車と同時に立ち上がりドアへと急いだのである。

左手におねぇちゃん、右手に白杖
 バスを降りると、歩道の段差を確認、数歩進んで歩道のハジへ。そこで大きく息を吐いた。そして、これまた大きく深呼吸をするウッチャン。降りてきた乗客たちは、みんなウッチャンと同じ動作をしていた。中には、長く息を止めていたのか、咳き込みながら息をはく人もいた。バスの停車したあたりの歩道は、「ハァー」にはじまり、「スゥー、ハァ」の大合唱。もちろんウッチャンも仲間に入れてもらっていた。

 見ず知らずの者たちの苦しみの中から生まれた合唱団。なんとスバラシイことか。そんな合唱団の前に、穏やかな風にのって、あのニオイが現れた。あわてる合唱団のメンバーたち。その場から離れるしか助かる道はなし。一人また一人と、早足の足音だけを残して、ウッチャンの前から去っていった。

 甘い香りがただよってきた。しかし、頭の中がピンク色に染まることはなかった。逃げ遅れたウッチャンにできることはとぼけることだけ。ニオイとともに、近づいてくる足音。体を横にソッポを向いたつもりが、全盲である身のかなしさか。おねぇちゃんの正面に向いてしまったのである。

 そして、あのやわらかな口調で、「どちらにいかれますか」と尋ねられ、息を殺しながらも「駅へ」と答えてしまったウッチャン。「ご一緒しましょう」の言葉に、これまた「ありがとうございます」と返事をしてしまう。

 おててつないではいいのだが、左手はおねぇちゃんの手が、右手は白杖。鼻と口をふさぐことはできない。息を止めて歩くにしても限界がある。思わずむせて咳き込むウッチャンに、「大丈夫ですか」とやさしく声をかけるおねぇちゃん。これには、「イヤー、なんでかむせてぇ。ナハハハ」と笑いながら答えるしかない。せっかくつないだおねぇちゃんの手の感触を、味わうこともできずに駅へと向かうウッチャンだった。

 ウッチャン的教訓――「アマーイ香りに気をつけろ。後でキツーイ仕打ちが待っている」