ライトホームを退所して、一人暮らしをはじめて数ヶ月たったある日。 ウッチャンは電車に乗っていた。ポケットの中には小田急線新宿駅までのキップ。さてさて新宿に行く目的は? はたまたどこへ行くつもりなのか。親切な人に声をかけられ、座席に座っているが、ユッタリと座っている様子はない。そして、新宿駅に到着を告げる車内放送が流れると、思わず背筋を伸ばし白杖を強く握りしめる。新宿に行くのは初めてではない。3回目になる。それなのになぜここまで緊張しているのか。
電車が新宿に到着、ホームに降り、改札方向へ身体を向ける。杖で点ブロを確認。大きく深呼吸し、(今日は、やってやる)と気合いを入れて歩き出すウッチャン。なんとか、小田急線の改札口を出て、数歩進む。とその時、ウッチャンの前を横切ろうとした人に杖をけられ、思わず立ち止まる。けった本人は、何も言わずいなくなる。(クソッタレ)と思いながら杖を持ち直し、またまた大きく深呼吸。そして、またまた(今日はやってやる)と強く思い、前へ歩き出す。次の目的地は、JR新宿駅の券売機。いったいどこへ行くのかウッチャン。
しばらく進むと、杖が点ブロにあたった。点ブロを足で確認すると同時に、階段の段差を杖で叩いた。今度は腕を少し伸ばして2段目の確認。(ヨシ)と階段を下りていく。下り終わると、目が見えていた頃の記憶を頼りに前へと歩き出す。 すると、右側から、券売機でキップを買う音、おつりが出てくる音が聞こえた。そこで立ち止まり、券売機に近づき、そばにいる人に声をかけた。だが反応はなし。(なんだよ、ケチ)と思うウッチャン。しかし、あくまでも人の気配を感じて、声をかけているワケで、人がいたのかどうかはわからない。
そこへ、お兄ちゃんがウッチャンに声をかけてきた。「アノー、何か困ってます?どこに行くんですか」と尋ねられた。「キップを買いたいんですが」と答えると、「アッソー、どこまで」と聞かれ、行き先を告げると、「それじゃぁ、もう少し前へ」と言いながら、ウッチャンの腕を掴んで前に進んだ。運賃表を見て、金額を教えるお兄ちゃん。それを聞いて、ポケットから千円札を出して、「これで買ってもらえますか」とウッチャン。「イイスヨ」と、受け取ると、キップを買いに行った。戻ってくると、「おつりは…」と細かく説明しながらウッチャンの手のひらにキップとおつりを載せてくれたのです。そして、「後は、改札まで行けばイイスカ」と、言ってくれたお兄ちゃん。「お願いできますか」のウッチャンの返事に、「イイスヨ」と改札の前まで誘導してくれたのである。
お兄ちゃんに礼を言って改札を通ると、身体を左に向け歩き出した。 そして、少し進むと誘導ブロックに杖が当たったのです。(バッチリダナ)と思いながら、改札に背を向け前へと歩き出したのである。ウッチャンは、なぜ左に行ってブロックを見つけられたのか。それは、 改札を通る時、有人改札がどちらにあるのか、お兄ちゃんに聞いていたのです。なぜならば、誘導ブロックは、有人改札から延びているから。となれば、左に向かって、杖をスライドさせて行けば、ブロックに必ずひっかかる。「さすがはウッチャン!」と言いたいところだが、これはライトホームでの訓練の賜であって、歩行訓練の指導者の苦労のおかげなのである。
さて、ウッチャンは、ブロックに沿って歩くこと数歩、左方向に延びているブロックを見つけると、「これがひとつ目」とつぶやきながら、前へと進んでいった。2つ目を見つけると、それに沿って歩き出した。ウッチャンが乗りたい電車は内周りの山手線。新宿駅西口の改札を入ると、2つ目のホームが内周りのホームと記憶していた。だから、直進して左右に延びているブロックを見つけたら、2つ目が、ホームへ向かうためのブロックだと推理しての行動なのである。進んで行くと、階段を上り下りする足音が聞こえてきた。そのまま進むと誘導ブロックから点ブロに変わった。階段であることを確認しても、すぐ上がらず点ブロにそって右へ。階段の端まで来ると、下りてくる人に声をかけ、山手線のホームなのか確認した。
階段を上がり、階段のへりに沿って右へ回り込み数歩進んで立ち止まる。ウッチャンの心臓はバクバクもの、緊張感はピークに達していた。それもそのはず、杖を使うようになってからJR新宿駅を利用するのは初めて。それも単独でホームに立っている。(落ち着け、ここからだ)と、ここでも大きく深呼吸。駅のホームがどうなっているか、記憶を辿るウッチャン。山手線の一番端の階段を利用した。それも池袋方面。となると、この位置には電車は止まらない。7〜8メートルぐらい前に行かなければ、最後部の車両にも乗れない。
人の流れの多さ、初めて利用するホーム。ホームの端にある点ブロを使って前へ進むのは危険すぎる。 となれば、誰かに誘導してもらい移動するしかない。だが、頼むのは、誰でもいいワケではない。ウッチャンにとっては、お姉ちゃんでなければいけないのである。そんな良からぬ思いで耳をダンボにすると、駅のざわめきの中からハイヒールらしき足音が。(せっかく新宿にいるんだから、ハイヒールのお姉ちゃんがいいなぁ)と思うウッチャン。なんでそう思うのかはよくわからないが、この訳のわからぬ思いを持った事でさっきまでの緊張感は和らいでいった。
そして、耳をダンボにして、ハイヒールの音が自分に近づくのを待っていた。しかし、この望みはかなわなかった。なぜか、近くに駅員がいたのである。ウッチャンに気づいた駅員に声をかけられ、電車に乗せてもらったのである。いくらウッチャンでも駅員に「あんたじゃ、いやだ」なんて言えるはずもない。とにかく無事に山手線に乗れたウッチャン。そして山手線でどこへ向かったのか。ウッチャンが降り立った駅は品川駅だった。どこへ向かっているのか?ウッチャン。その謎は…後編にて。