神奈川リハビリセンターにあるライトホームの職員室。時間は16時を過ぎた頃。事務処理をしている職員の佐山がいた。今日は、事務処理を終わらせ入所者の夕食の準備をすませば、仕事は終わる佐山だった。
「後少し」と書類に目を通していると電話が鳴った。受話器をとり、「ライトホーム職員室です」と答えると中年の女性の声で、「お世話になっております、内田の母ですが」の返事。「アードウモ、内田さんのお母さんですか。それで何か?」と尋ねる佐山。
「アノゥ、まだそちらにいますか?アパートに電話してもでないもので」
「そうですか、訓練は終わっていますけど、少し待ってくださいね」と答えると、受話器を置いてドア越しに、ホールで談笑している入所者に、「内田さんはもう帰ったかなぁ」と尋ねた。
それに、「ウッチャンは、帰ったよぅ」との返事。それを聞いて、「もう帰られたようですね。もしかしたら買い物か何かでどこかに寄り道しているのでは」と話すと、「そうですか、わかりました。すいません」と応えて電話を切る母だった。
受話器を置いて机に向かった佐山だったが、内田の母の心なしか声の弱さが気になってしまったのである。気になったらほっとくわけにはいかない。なにせ相手は視覚障害者なのだ。佐山は福祉職員であり、ここはライトホームという視覚障害者のための訓練施設なのである。
佐山は、職員室を出ると、ホールにいる入所者たちに声をかけた。「今日、内田さんどこか寄り道するとか聞いた人いる」すると一人が「寄り道するなんて言ってなかったよ。ウッチャン、何かやったの」と佐山に尋ね返した。「イヤ別に・・」と言葉を濁したが、「そうかなぁ、職員がウッチャンを探すって事は何かあるんだ。ここしばらくウッチャン、事件起こしてないからな。そろそろ何かやりそうだもん」
これには、佐山も苦笑いしながら、「お母さんから電話があっただけだよ」と答えた。「なんだそうなのか、オフクロすごく心配性だから困るってウッチャン言ってたなぁ。でも、心配すんなってのが無理ってもんだよ。なんたってウッチャンだかんね」と話す入所者。その場にいた全員が、みんなうなずきながら大笑いとなったのである。
その頃、内田の実家では、母親が電話の前で座り込んでいた。ライトホームには、息子の居場所を尋ねたが、実はアパートに電話して話し中だったのである。となれば、息子はアパートにいる事になる。それがナゼ?
原因は内田の妹にあった。あまりの話し中に怒りを感じた母親は、妹にグチルために電話したのだ。最初は、長電話にグチッていたが、話は横道にズレはじめ、攻める相手が自分に変わってきたのに気づいた妹は、「もしかしたら、受話器ハズレてんじゃないの」と口走ったからたいへん、母親の心配性に火をつけてしまった。
だれかと話しているのではなく、受話器がハズレている。何か起きたのか?アパートにいるのかいないのか?ハッキリさせたい。しかし方法は見つからない。ただライトホームにいてくれたならと電話する母親だった。いてくれたなら、「受話器がハズレている」と怒ればすむし安心もする。だが、いないとなった。
こうなると止まらない。母親の思いは、マイナスへ、マイナスへと向かい続けるのだった。とにかく無事を確認したい。だが、できる事は思いつく所に電話する事だけだった。ライトホームを退所していった友だちからアパートの大家さんまで気が付けば、時計の針は18時を過ぎていた。なんと1時間以上も電話の前から動いていない母親だったのだ。
気持ちは落ち着かない。しかし夕食の支度をしなければならない。少しでも落ち着きたいとライトホームに電話して、すべての状況を話した。その話を聞いたのは帰宅間近の佐山だった。
話を聞いてしまった事で、何かをあきらめるようにため息をついて、職員室を出ていく佐山。時間は18時30分。夕食をすませ、それぞれに時間を過ごしている入所者に、内田のことを尋ねる佐山。返ってくる言葉は全員「知らない」だった。そして、聞かれた方から「どうしたのか」と質問されるのも当然な事。仕方なく状況を説明。
こうなると、心配が半分、たいくつしのぎが半分。ホールに集まってくる入所者たち。あれこれ推測で話を始めた。そして、結論は、他の施設の仲間や、病院に入院患者で内田を知っている者の所に行ってみよう。何かわかるかもしれないとなったのである。
こうなると、視覚障害者で、白杖の使い方もおぼつかない者でも動きは早い。内田の行方を捜す捜査がライトホームの入所者たちによって始まったのである。(続く)