茅ヶ崎での準備会から1カ月ほどたったある日、自分のしたことなど、すっかり忘れていた内田の元へ、中村から電話が入った。今は、協力を申し出た人達と2回目の準備会の開催に向けて動いているとの説明に、「よかったですね」と応える内田だった。
しかし、組織の中に入るとトラブルメーカーになる性格だと自覚していた内田には、かかわりたくないという思いが広がっていた。だが、「あの時、手を上げてくれたから、発言してくれたから…」と、礼を言うような中村の言葉。そして、「これからもよろしく」と言われては、内田に逃げ場はない。「わかりました」と返事をするしかなかった。
ライトホームの生活も残りわずかになっている内田にとって、やる気があるないにかかわらず、JRPSどころではないというのが本心だった。だが、そんなそぶりを感じさせないよう内田は、中村に2回目の準備会への参加を約束して電話を切ったのである。
◇県の保健行政とつながりを持つ
第2回設立準備会は、会場を横浜に移して行われた。その当時、網膜色素変性症が国から難病と指定され、特定疾患として認定されて間もないこともあり、その概要について準備会で説明してもらうように神奈川県保健予防課に要請した。また、会員だけにとどまらず、県内の患者たちにも開催を知ってもらうためいくつかの新聞社に開催告知の掲載を依頼していた。
2回目の準備会は木枯らしが吹き付ける真冬の開催にもかかわらず、出席者は100名を超えていた。そのほとんどは、特定疾患の認定についての話を聞くのが目的。支部設立の話など二の次で、こうなるとまたまた内田が爆発するところだが、何事もなかった。それは、会場に内田の姿がなかったからである。当日、内田はカゼをこじらせて寝込んでいた。「馬鹿は、カゼをひかない」と言う言葉があるが、内田がカゼをひいたことで、この説が間違いであると証明された日ともなったのである。
支部設立の議題が特定疾患についての話でかき消された感はあったが、新たな協力者を得ることができた準備会となった。そして一番の成果は、いち早く県の保健行政とのつながりを持ったことにあった。というのも、県の保健予防課に特定疾患認定についての概要説明を要請したことで、準備会の内容が各地域の保健所に知られることとなったからだ。事務的な説明はできても、新しく認定された病気についての知識不足は否めない保健所にとって、積極的に活動している患者団体ほど頼りになるものはないだろう。そんな組織が、神奈川に誕生するとなれば、協力的にもなる。この時の判断と素早い行動が、後の支部活動の大きな力となったのである。
中村、二宮、宮本の支部設立への願いは、3人の努力と新たな仲間たちの力によって実現されようとしていた。患者たちの元だけではなく、福祉・医療関係者の元へ、風は流れ始めた。一つの大きな夢を載せて……。