●第二話 第1回設立準備会

  支部活動のための規約作成、準備会開催の案内状作り。そして、会場探しと当日のボランティアの手配。中村、二宮、宮本の3人は動きに動いた。なれないことをやると言う生やさしいものではない。まったく何もわからない。支部設立のためにあったものは3人の知恵と身体、そして、神奈川での地域活動をとの思いだけだった。

  現実に動くとなればもっとも必要なのは活動資金。しかし、本部へ要求したのは神奈川県在住の会員の名簿の貸し出しだけだったのである。

  資金があるからできる。ないからできないと考えるレベルではない所に3人はいた。本部にあれこれ要求しているより、今あるものを活用し、ないものは自分たちで作る。その方が早い。一人何十万も出すと言うなら尻込みもするだろうが、少しばかりのゼイタクをがまんすればいい程度の金額。3人は当面必要な資金を出し合って動いていた。

  提供した金額が戻ってくることなど3人には意味をなさない。自分たちが投資したものが戻ってくるとすれば、それは、資金ではなく、神奈川支部の活動と言うスタートを新たな仲間とともに切ることだったのである。

  この準備の中、3人の大きな驚きは設立間もないJRPSにあって、神奈川に100名以上の会員がいたことである。だが、その驚きは、支部の存在の必要性を強くする思いへと変わって行くのであった。

最大の目的は協力者の確保
  設立準備会当日、快晴。茅ヶ崎駅周辺にはJRPSの旗を掲げたボランティアがあちらこちらに立って、開場へと案内をする姿があった。

  その頃、会場の入り口では落ち着かない様子の3人がいた。特に中村は意味もなく、あっちにウロウロこっちにウロウロ。何回も打ち合わせた事を意味もなく確認をくりかえす。最後には、「じっとしてなさい」と妻にどやされる始末。そんな中、一人また一人と会員が会場へ。入り口の受付では二宮と中村の妻がテキパキとこなしていく。宮本は出席者を座席へと誘導していた。中村と言えば、「ドウモドウモ、ご苦労様です」と受付あたりで、出席者に愛想を振りまくのがやっとの状態だった。

   会場内は30名近い出席者となり、支部設立準備会が中村の挨拶からスタートした。3人の出会いから数ヶ月。本部から出席していた理事たちには驚くしかない情景が目の前にあった。(こんなに早く、なぜここまでやれたのか。それも、中村、二宮、宮本のたった3人だけで)との思いを感じていた。

  しかし、当の3人は時間の早さなど思いもつかない。ただやろうと決めて行動したら今日になっただけなのである。それよりもこれからが勝負なのだ。出席者に支部の必要性をいかに訴え、協力者を集めるかが今日の最大の目的なのである。3人の思いを胸にマイクを持つ中村。それを見守る二宮と宮本だった。

思わず手を上げた男
  準備会は主催者側の出席者の紹介と挨拶から始まり、参加者の自己紹介へと進み、そして、支部運営のための規約などを発表。各項目への質疑応答へと型どおりの進行がなされた。そんな中、生あくびをしながら、(やっぱり来なきゃよかったかなぁ。話が難しくてわかんないもんな)と思い、最後には(早く、終わらないかなぁ)と思いながら時間を過ごす男がいた。こうなると人の話は“右から左”状態となる。そんな状態の男でも反応してしまった発言があった。それは、中村の支部設立への協力を訴える言葉だった。これにはその必死さに思わず手を上げてしまったのである。

  そして、もう一つ男にはひっかかることがあった。それは、一つの項目が終わるたびにくりかえされる中村の「協力を…」の発言だった。

  中村の発言のたびに手を上げることにうんざりし始めた頃、男に付き添って来ていたボランティアが「手を上げているのは内田さんと黒沢さんだけだから、何回も頼んでいるみたいですよ」と男に小声で言ってきたのである。その言葉に、(二人だけかよ)の驚きとともにムッとする以上の思いがこみ上げてくる男だった。

  人には感情を抑える力がある。人であるならば持っていて当たり前の理性とも言うべきものである。だが、人それぞれに個性があるように理性を保つ力にも強弱がある。強ければ問題はないのだが、弱いとなると大変なのである。残念なことに男は大変な方だった。

  前半の支部設立、運営についての話し合いの時間はなんとか耐えられていた。しかし、後半のRP(網膜色素変性症)に関する講演が行われ、質疑応答が始まった中でも支部の存在の重要性を訴える中村の姿があった。(ここまできても言ってんだから、一人や二人は…)と思い、後ろにいるボランティアに、「おれたち以外に…」と尋ねると、「だれも…」の返事。これにキレてしまった男は、(なんだ、オマエラ)と心の中で叫んだ。ついに、弱くても持っている理性はフットンでしまったのである。

ついに大爆発
  こうなると生あくびしているどころではない。自分の感情を爆発させるチャンスを狙って神経をとがらせはじめたのである。そして、講演の後の質疑応答も終わり、中村がマイクを持って、何やら話した後、あきらめもせず協力を求める発言。ここで、男は手を上げて、ひと言言わせてほしいと頼んだ。そして、マイクを受け取るとこう話し始めた。

  「今日の集まりは神奈川に支部を作って活動しようってのが目的で、そのためにはどうするかってことを話し合うために集まったんだと思ってました。ところが、くりかえし協力してほしいとの言葉に手を上げたのはおれと友だちの二人だけ。今日なんのために来たのか。封書が送られてきて、中身を見て納得してみなさんは来たんじゃないですか…」

  男が感情を抑え話せたのはここまで。この後は言いたい放題。ものの言い方はチンピラもどきとなったのである。

  「人の決めたことにケチつけてイザやるとなると他人まかせかよ。だいたい、面倒なことにはかかわりたくないってんだったら、なんでここに来るんだよ。みこしはカツグ人間がいなきゃ動かないんだよ。支部だって、同じようなもんだろうが。作るだけ作って、それでオシマイってのか。それでいいのかよ。動かないみこしを見て、つまんないと思うのは許せても、支部を作って動く動かない。それにだ、どう動こうが文句を言う権利はあんたたちにはないからな。進行していく病気だから、将来が心配なんだろう。今やれてる仕事を続けられるか、どうなるんだろうって心配なんだろう。だから自分のことだけって言うんなら、なんでここに来るんだよ。あんたたちは支部作る話だってわかっててきたんだろうが。おれに言わせりゃ、今、仕事やれてるだけでもいいってもんだ。おれなんか将来どころか、今どうするかって状況だよ。何ができるって自信があるものなんかない。それでも同じ障害を持った人間がそれも同じ病気の人間がさ、仲間のために何かをやろうって言ってんだよ。それを他人事みたいにボーッと聞いてられるほどアホじゃないからおれは手を上げた。この中には社会的にも責任ある立場で仕事している人もいるだろう。おれみたいな者にここまで言われるのはハラたつだろうが。むかつくような事言われる原因作ったのはだれなのかよく考えろよな」と、とどまることなくと続く男の暴言。いっしょに来ていた友人にソデを引っ張られ、ようやく我に返って、話をやめた。そして、席に腰を下ろす男。隣にいた友人が、「やっちゃったね。いつものことだけど」と小声でひと言。それに、「ウッセィナァ、これでもガマンしてたんだよ」と応えると、「がまんすんなら最後まで・・」と言い返す友人だった。すると、「とにかくヤバイから、終わったら、スグ逃げるからな」と男は言った。これに、「了解ズミだよ」と返事をする友人。男はボランティアにも伝えておこうと後ろを向いた。すると小声で、こちらも了解してますよ」と返事が返ってきたのである。

  ボランティアにも知られている男の性格。一対、この男は何ものなのか。男の名は内田と言う。後に神奈川支部で会員たちから、ウッチャンと呼ばれるようになる男なのである。

ライトホームで暴言・お説教・反省の日々
  このころの内田は、「ライトホーム」と呼ばれる施設で、日常生活を送るために必要な訓練を受けていた。入所して1年あまり、そろそろ退所後を考えなければいけない時期でもあった。内田の暴言はライトホームでも問題になっていた。それどころかライトホームの職員や入所者以外にも暴言をはき、迷惑をこうむっていたのは一人や二人ではなかったのである。気にいらないと思えば相手かまわず暴言をはき、その度に職員室に呼び出されお説教。落ち着いて話せばいいことを思いついたまま言葉にしてしまう。それも自分のことは棚に上げて口にするから始末が悪い。だが、最後は反省の日々を送ることになる。暴言をはき、お説教を受け、反省。ライトホームではそんなことをくりかえしている内田だったのである。

逃げる内田だが…
 そんな内田が覚えた戦法は、「逃げるが勝ち」だったのである。となれば、準備会の終了の挨拶を中村が始めた時には、リュックはもう背中にしょっていたし、折りたたみの白杖は伸ばして、手に持っていたのである。

  そして、中村の、「ありがとうございました」の最後の言葉の時には立ち上がっていた。なんともみっともなく、こそくな戦法であろうか。いち早く会場を出て、エレベーターへ。「アラ、途中で止まったままみたい」とボランティアのひと言。それに、(マズイナァ)とあせる内田。いらつきながら待っていると会場の方から、「内田さんはどちらですか。内田さんはいらっしゃいませんか」の中村の連呼する声が聞こえてきた。

  それを聞いて、「返事するなよ」と友人にひと言。友人の「わかった」との小声の返事と重なるようにボランティアが、「内田さんはこちらですよ」の声。(アッ、余計なことを・・。呼び戻されたりしたらどうすんだよ)とあせる内田。ボランティアの声に導かれ、中村は内田の前へ。

  「内田さんですか」の問いかけに返事をするしかない。中村は握手を求め、手を握ったまま、「ありがとう。言い方はともかく、内田さんのひと言があったおかげで、あの後、協力すると言ってくれる人がありました。あそこまで言われて、だまって帰れませんからとみなさんおっしゃって。ハハハ!」と笑いながら話す。

  これに、「すいませんね。性格なもんで」と応える内田に、「イヤイヤ、それよりお帰りですか」と尋ねられ、「ボランティアの方との約束の時間もありますし、ライトホームには夕食までには帰ると言ってありますので…」と答えると、「そうですか、では近い内に連絡させてもらいます」と中村が言った。これに、(連絡しなくていいから・・)と思いながらも、「はい、わかりました」と返事をするしかない内田だった。

  準備会終了後、親睦会がおこなわれ、参加者たちはなごやかに談笑していた。しかし、その中には内田はどこにいるとひと言言い返したい気持で過ごす参加者もいた。だが、そのころ内田は帰りの電車の中にいたのである。内田のこそくな方法が成功した最初で最後の日であった。

風は、明日へと吹き始めた
  休む間もなく、中村、二宮、宮本の3人は新たな協力者とともに2回目の準備会へと動いていた。しかし、その中には内田はいなかった。敵前逃亡したか、残念だが逃げる場所はない。ライトホームで最後の追い込みの訓練の日々を送っていたのである。

  そして、2回目は横浜で開催することが決定された頃。世間では3人にとって、追い風となる風が吹き始めた。それは、網膜色素変性症が国の難病と指定され、特定疾患の認定を受けたことであった。こうなると保健所はもちろん、関係省庁は動き出すことになる。

  この決定は3人にとっても大きな願いであった。そして、活動の柱となるものが一つ支部設立前に生まれたのである。3人は大変さより、一つの目的を手にしたことを喜んだのであった。

  中村、二宮、宮本の3人が出会い。神奈川の空に新たな風が生まれた。その風はどこに向かっているのか。3人が見つめている先へ。3人が歩もうとしている先へと風は向かっている。風は、明日へ明日へと吹き始めた。