●点字の歴史


 視覚障害者の文字コミュニケーション媒体は点字である。なぜそれは点字という形になったのであろうか。「点字は視覚障害者にとって画期的な文字」といわれるのはなぜか。点字誕生の経緯を概観してみる。

 (1)点字の誕生

 ローマの教育家クインテリアヌスは「盲人に文字を」という試みを最初に行なった人物である。彼は,木・象牙・金属板などに彫り込んだ文字,いわゆるタブラ文字の利用を薦めたのである。タブラ文字の改良は当時の文化の中心地であるロッテルダム・ミラノ・ニュールンベルグなどで続けられ,1784年世界最初の盲学校パリ青少年訓盲院を設立したバランタン・アユイによって大成された。晴眼者が使う文字と同じ文字を凸刻活字として組んで,それに濡れた紙をあてて初めて盲人用印刷物を作った。これらの活字は視覚の介入無く触覚のみで読むことができると考えた。字体に関してゴシック・イタリック・スラブ族の文字などをもって種々実験を試みたが,ローマ字の優秀なことを証明してそこにおちついた。始めは大小両文字を使用したが後には主として小文字を使用した。盲人が文字を書く方法としては,先の割れていない鉄のペンを持って硬い紙の上に文字を凹刻するという方法が行なわれた。読む時には紙の裏面に突起した文字をたどって読むことができる。紙面における文字の高さは,たとえ少しでも充分である。文字を手書きにするには,枠を用いる。枠の面には平行な線をおき,線と線の間は10分の9インチである。この枠を紙の上におき,行をたどって書いた。このようなローマ字形式の他に,自由表出形式がある。前者にはゴールタイプ・アルストンタイプ・ウィリアムテイラーがあり,後者にはリューカスタイプ・フリーヤタイプ・ムーンタイプなどがある。いずれにしても浮き出した線をたどって読むというやり方で,ローマ字の浮き出した線をたどり読むことは極めて難しかった。ニューヨーク盲学校長のウェイトが読みこなせるもの664人中僅かに3分の1と報告している。それは目の見えないという事実の認識のあまさと,「見える人たちと対等の文字を」という意識の先行の敗北を意味していた。「見えない人たちに視覚的文字と異質の文字を」と考えたのはローマのフランチェスコ・ラナ・テルッティーである。1670年,カギとテンを組み合せてアルファベットを考案した。これが視覚的文字から脱皮した「点字」という触る文字への萌芽であった。フランスの軍人ニコラス・マリーシャルル・バルビエは1803年にカストによって仏語訳されたラナの盲人文字を参考にして軍事上の目的による暗号文字を考案したのは1815年のことであった。これを盲人の教育用として用いることとした。作られた当初は9・11点字であったが,1819年には12点字と改められた。この点字は1821年にパリ青少年訓盲院に教育補助方法として採用された。その当時13歳だった全盲児ルイ・ブライユはただちにこれに習熟し,「盲人文字の真理は点字にある」と認め触指頭からはみ出しがちな11・12点字をコンパクトに改良することを思い立った。卒業とともに母校の教師となった彼は,1829年に6点構成の文字組織を発表した。6点式は触指頭にストレートに真理をもたらしたのである。しかし不遇にもブライユ生存中には採用されずに逝去後2年を経た1854年に公式文字として認められた。このブライユの6点点字が,今,世界の視覚障害者の文字の基礎をなしているのである。

 (2)日本点字の誕生

 日本においても始めは凸字を使用していた。コヨリ文字や針跡文字や松油文字などが使用されていた。

 ルイ・ブライユの6点点字についてのわが国における最初の記述は1865年(慶応1年)幕府の外国奉行柴田日向の守剛中に随行した岡田摂倉がパリの訓盲院を尋ねた時の日記に見ることができる。しかし,教育的意味を持つものは,これ以降になる。1879年(明治12年)2月,文部省発行の教育雑誌第89号に掲載された在米留学生監督の目賀田種太郎の「パーキンス盲学校視察報告書」である。今の筑波大学付属盲学校の前進である「楽善会訓盲院」の教師であった小西信八と石川倉次はともに仮名文字論者であった。小西は仮名文字及び漢字を凸書した教科書での教育の困難を見るにつけ,読むにも書くにも自由になる文字を工夫しなければならないと感じ,教育博物館にあった英国制点字板と盲人教育に関する資料を借りて研究し,1887年(明治20年)に生徒の小林新吉に教えた。小林は2週間で自由に読み書きができるようになり,他の生徒に及ぼす影響も大きかった。しかし,これがローマ字形式での表記であったので小西は同年末わが国の仮名に合うような点字の改良を教員や生徒に依頼した。石川倉次は初め6点では全文字を表すのは不可能だと考えて,8点点字を考えた。これは1・4の点の間と,3・6の点の間に1点ずつ加えたもので,3点四方の8点点字で濁音も含まれている。この8点用の点字板を製造し,生徒に使わせてみたところ「ローマ字よりも使いやすい」ということで大変喜ばれた。石川は,この8点に満足せずブライユの6点でよい工夫ができないものかと考えた。小西もまたブライユの6点で仮名を表出したいという意見であった。そして再び教員や生徒全員あげての点字翻案の業に努力したのであった。7点・8点・9点など,多く
の案が出たが,やがてその中から三つに絞られ,なおかつ1890年(明治23年)9月27日から点字制定会が開かれ,この3案について種々の角度から審議し,また実験を重ね,同年11月1日の第4回制定委員会において石川案の採用が決議されたのである。当日の主たる決定事項は次のとおりである。

 1)ブライユそのままのローマ字綴は用いない。
 2)ブライユの配列法そのままを仮名に配当することは不都合が多く,益が少ないので新たに組み換えることとする。
 3)新たに組み換える点字の中では,石川倉次案を採用することとする。
 4)数字は西洋と同一のものを用いる。

 このようにして日本点字の翻案は完了したのである。
 現在の点字はこの時に制定されたものそのものを使っているわけではない。100年からの歳月は,国語の体型や漢字や仮名及び句読点の表記方法に変化をもたらした。点字の世界でも同じことがいえる。点字は国語を表すものであるから,点字も墨字と同様変化したのである。もちろん基礎となっているのはこの石川案であるが,1890年(明治23年)に制定されて以来多くの人々の努力によって次第に国語表記法としての体型を整えてきているのである。その移り変わりは次の四つの時期に分けて見ることができる。

第1期・・・歴史的仮名づかいを用いていた時期。
 制定されて10年間は50音・濁音・反濁音・数字・繋符程度であった。墨字と同様に歴史的仮名づかいを用いた。

第2期・・・折衷式仮名づかいを用いていた時期。
 20世紀を迎えようとするころ,一般の教育界では「漢字音を表音式に書き表そう」という気運が顕著となり,1900年(明治33年)には小学校令に字音仮名(字音棒引ともいう)が,一部の検定教科書に採用され,次いで国定教科書になった際に使用された。この時期に点字においても表音式への気運が次第に高まった。1898年(明治31年)に石川は陽音点字を発表し,翌年公認された。さらに1907年(明治40年)に開かれた第1回全国盲唖教育大会において表音式仮名づかいを決議し,ファ行とヴァ行の点字を追加している。

第3期・・・点字が独自の表音式表記を行なった時期
 今まで歴史的仮名づかいで表記されることが多かった和語も,表音式表記に変って行った。その普及に貢献したのは「点字大阪毎日」であった。1928年(昭和3年)には文部省は盲学校初等部用国語読本の編纂に着手したが,その際に点字表記の方法が問題となった。その時にすべて表音式表記にすることを決定した。1937年(昭和12年)には,沢田慶治による特殊音の追加集大成が行なわれた。そして点字の分かち書きについても現在の基礎となるものが確立したのがこの時期であった。

第4期・・・点字表記の統一と大成化を目指して組織的取り組みを行なった時期
 戦後の各種法律の整備などで視覚障害者もようやく社会の一員として認められるようになったこの時期に,地方ごとの表記法の違いや学校ごとの表記法の違いなど微妙に違っていたところを,全国的に統一しようとする動きがでてきた。1951年(昭和26年)にはパリで点字会議が開かれ,また1954年(昭和29年)には世界点字楽譜統一会議が開かれた。国際的にも統一を計ろうという動きがでてきたのである。国内に目をうつしてみると,墨字の世界においても現代仮名づかいの制定などがおこなわれて国語表記法の改定が行なわれていた。このような状勢のもとで点字表記法の統一の気運が高まり,全国組織の必要性が痛感されて1955年(昭和30年)に日本点字研究会が発足した。ここでは約10年間に「点字文法とその改定版」「点字早わかり」「点字数学記号」「点字理科学記号」「点字法学記号」などを勢力的に出版した。1966年(昭和41年)に全日本盲教育研究会に点字部会が設けられたのを機会に先の研究会は解散して,新たに盲教育界と盲人社会福祉界の両方から委員を出し合い,それに学識経験者を加えて「日本点字委員会(日点委)」を発足させた。日点委は日本点字表記法を決定する唯一の機関として誕生し,点字表記法の統一と体型かを目指して活動を始めた。その委員会の中で十数項目にわたるものの,統一が計られ,1971年(昭和46年)に「日本点字表記法現代語篇」を編集して発行した。次いで小数点の統一をみたので1973年(昭和48年)にはその改定版を発行した。その後も1980年(昭和55年)には「改定 日本点字表記法」を発行した。その改定にあたっての基本方針としては次の3点があげられる。

 1)墨字との対応関係を明らかにする。
 2)表記法としての体系化。すなわち表記法内部の矛盾をなくし,表記法の理論的根拠を明らかにする。
 3)符号の多様化に対応する。

 以上である。