●テレビ大好き

横須賀市 ・ 内田 知

 今号で、ウッチャンは巻頭言を書きました。巻頭言でも書いたように、ウッチャンは陶芸と映画鑑賞を趣味としているのだが、映画好きになるきっかけはテレビの存在があったからなのです。見えないと楽しめないテレビ。それでもテレビが大好きなウッチャン。どうしてそうなのか。今回はそんな話です。

テレビはサイコーのオモチャ
 昭和30年代のある日、ウッチャンの家にテレビがやって来た。その日からウッチャンにとって、テレビはサイコーのオモチャとなったのでした。ある時は家庭教師となり、ある時は悪友となって、良いことも悪いことも教えてくれた。

 テレビが、家に来てからウッチャンにはタイクツと言う時間は存在しなかった。とにかく、なんでも見ていた。アニメから国会中継までと言っても過言ではないぐらいだ。

 昭和40年代のテレビは、映画の放映が多かったのです。特に、日曜日の午後は、テレビは映画館となる。着流しのカッコイイ健さんから、ハリウッド映画の大作。喜劇から、子供にはチト早い色っぽいシーンのある映画まで、どこのチャンネルを回しても放映されていたのです。この時間が、ウッチャンを映画ファンにしたのでした。

 そして、テレビ好きは思春期を過ぎて、二十歳を超えても変わらなかった。暇さえあればと言うより、テレビを見る時間をタップリと作って過ごしていたのである。なんだか暗い生活を送っているように思われるかもしれないが、ウッチャンの必要以上の明るさと笑いにこだわる感性を育てたのはテレビなのです。

 そんなウッチャンに、悪魔が忍び寄って来た。映像を楽しむための視覚をジワジワと奪っていく。画面全体をとらえる事ができない。色を感じる事ができない。かすかに見えるものは、ゆがんで見える。そして最後はすべてを奪っていった。

 それでもウッチャンは、テレビから離れる事はなかった。見えないから楽しめない。それであきらめて、他に楽しめるものはあるのか。ウッチャンにはなかったのである。それならば、トコトンテレビを見てやる。テレビだけじゃない。映像と言う世界にこだわって楽しんでやる。そう決めたのです。

感性にスイッチを入れて見る
 たとえば、1本の映画を見る。おもしろかったと言う人もいれば、そうでない人もいる。なぜ、それぞれに見た後の感想が違うのか。見える・見えないで違うのか。そうではないだろう。感性は、何かを感じたいと思えば動き出す。視覚で感じる事ができなければ、他の方法を考え動いてくれる。そして、おもしろいかつまらないかを教えてくれる。

 ただし、感性にスイッチを入れるのは自分自身なのだ。スイッチを入れずに、楽しめないと思うのはおかしい。なぜなら、何も感じていないからだ。生死をかけて、何かを感じなければいけないワケではない。楽しめるかを確認するために、チトためすだけの話だ。やって、つまらなければ、次からやらなきゃいいだけの事なのだ。

 日々の生活は、いやでも障害との戦いでもある。怖さと、不自由さの中、がんばらなきゃって思いだけで生きていたら人はどうなるだろう。きっとつかれて、もういやだと思うだろう。そして、間違った方向へ自分の命を持っていってしまう人もいるかもしれない。

 楽と言う言葉が生まれたのは、楽と言う何かが存在しているからだと思う。生きているから味わえる楽があるのだ。いやでも現れる苦労と戦うために、ウッチャンは楽を探し回る。ただ、楽しむことばかりに夢中になりすぎてウッチャンより、周囲の人たちが、必要のない苦労をしているらしい。神奈川の会員のみなさんは、とくにアブナイです。ウッチャンの行動に、巻き込まれないようにお気をつけください。